プレイバック:高校〜大学時代

 「絶対に根暗って言われてたまるか!」これが、高校生になった俺が発した第一声だった。
 小学校高学年〜中学3年間を通じ、『暗い』と思われるのはもうコリゴリだった。どうすれば明るいのが当たり前になれるのか、忘れそうになったこともあるけど、とにかく夢にまで見た高校合格を実現させたからには、絶対に、『暗くないのが当たり前』、『友達と一緒にいるのが普通』と思われる自分に生まれ変わってやる!!と燃えた。


 1年生の新学期が始まるが早いか、俺はクラスで飛ばしまくった。
 とにかく、授業中でも何時でも、ギャグを連発するようにしたのだ。そうして『人を笑わせるヤツ』、『楽しいヤツ』と思わせることが出来れば、自分の目標達成だった。とにかく、暗いという印象さえ持たれなければ、そしていじめられることが無ければ、もうバラ色の学校生活だったのだ。俺は突っ走った。


 あんまり夢中で人を笑わせようとし過ぎて、少々周りからの反応が怪しくなりかけたことがあった。「授業中は、ちゃんとみんなに合わそうな」と忠告され、『ムードメーカーや』と、やや皮肉を込めて言われたりした。
 自分がギャグを飛ばすと人が笑ってくれる。それに味を占め過ぎた結果の、軽い自己転倒だった。


 それでも然程ヘコむことはなく、高校生活をエンジョイしていたが、一方で強烈なカルチャーショックを覚え、入学後ひと月ぐらい、食欲が沸かなかった。とにかくみんな、服装がすごかったのである。私服だったが、大胆で大人びている。男子はものすごく年上に見えてイカつい感じがしたし、女子も化粧をしていて挑発的な感じがした。
 そんな、一気に大人の香り、思春期の香りが濃くなった世界に、俺は付いていけなかった。
 交友関係もすこぶる好調だった。入学して数ヶ月で、もう5人以上は友達が出来ていた。それも性格が自分に近く、気の合う友達に恵まれて、本当に嬉しかった。高校は電車通学だったが、放課後、友達と一緒に途中まで帰るのは、当たり前の光景になった。入学前は予想出来なかった快挙だ。その友達も、男友達だけならまだ想像が付く。女友達が出来たのだ!!


 思春期真っ盛りの年齢にあった自分。やはり異性の存在というのが、すごく眩しい、華やかなものに映った。
 帰りの電車で、女友達とずっと一緒で、2人でいろいろ話したということもあった。正直言うと、“好きな人”とは違う人だった。
 “好きな人”は家の方角が反対だったから、電車で一緒にはならない。一緒に帰ったのは、3年間通じて親しかった女友達の内の、何人かである。『何人かである』と、1人だけではないのがスゲーことなんだけど、普通の友達であっても、異性というだけでドキドキしたし、何よりビックリして、ウキウキさえしていた。
 ワンステージ昇華した気分で、新しい世界が広がったという充実感も大きかった。


 青春時代は、特に波が激しい。好きな人への意識が強くなると、明るさが失速した。
 俺は相変わらず鉄道が好きで、このころは地方のローカル鉄道に乗ることがマイブームだった。インターネットなんかない時代、本屋で時刻表を買ってきて、休みの日にどこまで乗りに行くかプランを立てるのが楽しみだったのだ。
 しかし・・・・・、俺は自分の趣味を楽しめなくなった。否定するようになったのだ。何故なら、自分の趣味だと、女の子にとっては全然魅力がないし、カッコよくないと感じたからだ。


 「鉄道やバスなんてダサい。やっぱり車かバイクじゃないとダメだろう」
 そう、思うようになり、半分ムキになって本屋で車雑誌を手当たり次第読みあさった。・・・・・何も頭に入らなかった。それでも、「これが高校生らしいし、女の子に対して正しい」と思い込んでいた。
 好きな鉄道雑誌に対しては敬遠モードだったし、周囲の、大人びて年上みたいに見える男に、少しでも追いつかないといけないと焦っていた。それでも、趣味の行動をして一日過ごすことはあったのだが、やっぱり本心から楽しめないというか、どこか複雑な心境だったな・・・・・。


 スランプに陥った時はひどかった。授業には集中出来ないし当然成績もガタ落ち、自分の世界に閉じこもってばかりいたが、それでも『根暗』と言われたり、『暗いヤツ』と冷やかされたりすることが無かったのは、最初の頃、ジョークで“飛ばして”いたのが効いていたのだろうか?いや、それだけ友達が良かったということなのだろう。
 コミュニケーションの問題は、ないことはなかった。
 「もっと一緒にいる人のことを考えて行動しろ」、「人の話を集中して聞け」と怒られた時もあるけど、総じて一番友達関係がうまくいっていた時期だと思う。
 卒業してからもずっと思っているけど、本当に高校ではいい友達に恵まれた。元々第二志望ではあったが、選んで正解だった。


 勉強は決してよく出来たほうではない。とりわけコンピューターの授業は一番苦手だった。あの頃は、自分が将来パソコンを使えるようになるなんて想像もしなかったし、ただ授業だから仕方なくやっていた。
 いつも、「ヨシ、これであとは確定キーを押せば課題終了だ!」と思うと、間違えてリセットキーを押してしまって全部やり直しとなり、一人パニックになっていた。その時はさすがに、隣の席の友達も見て呆れている様子だったな・・・・・。
 英語は好きになれたけど、先生がクラス全体に「5分以内にここまで読みなさい」と言って、全員で一斉に教科書を読む時間は苦手だったな。いつも読むのが間に合わなかったし、長時間文字を見詰めていて集中出来なくなったりした。


 英語では、高校2年生の春から、英会話教室に通い始めた。ここの人たちは最初からすごく良くしてくれて、俺は一気に馴染んだ。俺は週に何回もレッスンに通った。英会話は、最初は本気ではなかった。母親勧められたのが切っ掛けで、ほんの気分転換に近い目的だったのだが、やがて進学を考えなくてはならない時期が来るにつけ、次第にのめり込んでいった。気が付けば、海外留学を目指すための特訓コースを、常連で受けるようになっていた。
 入ってまだ3ヶ月だった高校2年の夏休みには、この英会話教室からのアシストで、アメリカはマサチューセッツにサマースクールに行くという贅沢な体験もした。


 高校卒業時点ではまだ大学は決まっていなかったが(海外の大学なので入試はない。書類選考で、卒業直前に1校結果が来たが、不合格)、卒業後3ヶ月して、ついに第一志望だった大学に合格、晴れて海外留学生活がスタートすることになった。
 人一倍特訓して、ようやく周りの学力に追いつくか追いつかないか、という水準だった自分が、大学まで進めたのだから、「やったじゃないか」と思った。ましてや留学である。自分自身、想像もしていなかった。もちろん、日本の大学への入試センター試験を受けている光景も、なかなか出てこなかったが・・・・・。













 大学時代・・・・・、高校時代と大きく違ったのは、社会人に近付き、求められる空気がより大人になっていったということ。
 当然、自分はその面では苦戦することを余儀なくされた。
 『大人の一面』ということが課題としてのしかかってきたが、どんな風に判断して、どんな風に行動を取れば大人なのか、難しくて苦労した。
 勉強のほうは、こちらも特に最初の1年は、脱落するのではないかと思うほどの大苦戦であった。
 「お前は授業中、寝過ぎじゃ!(You sleep a lot !)」と先生に叱られたが、これでも気分の上ではずーっと集中していた。だけどその延長線上で、いつの間にか意識が飛んでいる。こんなことは、生涯を通じて山ほどあるのだ。
 集中と睡眠は紙一重ということか?退屈で眠くなったという記憶もない。あるのは、ただただ難しかったという実感だけだ。


 海外留学という贅沢な体験を味わっていたが、一方で、『社会に適応出来ない』という、のちに障害と診断されることになる特徴の兆候が、顕著に現れるようになったのがこの時期だ。留学中も日本人同士の付き合いというのは多かったわけだが、事あるごとに、『お前、そんなこと言っていたら、世の中で生きていけないぞ』と言われた。何の時か、もうハッキリとは覚えていないが、自分はどうしても曲がったことが嫌いだし、自分の都合を返上して付き合わないといけないのが嫌いだったから、誰かから誘われて、「今は飽くまでも都合が悪い」と強情に断った時に言われたのだと思う。


 または、言葉の行き違いでしばしば周りと衝突したこともあったので、『自分が解るように言ってほしい』という要求を、一方的にし過ぎた時に言われたのかも知れない。
 大学生時代、というより、年齢が20〜22歳の頃は、俺は自分に対しても一番攻撃的になりやすい時期だった。
 だから元々の自分のクセだった、頭を激しく叩くという自傷行為が最も頻発していて、何度か下宿のルームメートにも目撃されてしまったことがある。さすがにその時は相手は言葉を失って固まっていた。当然だろう。


 自分に対してだけではなく、他人に対してもしばしば攻撃的になっていた。後から思えばこれはコンプレックスの裏返しで、日頃の自分への態度のひずみだったのだろう。
 常に一番ストレートな表現を使い、常に感情がそのまま言葉になっていたので、「お前はいつも人を傷つける」、「普通ならそこまでは言わないという、ドキッとするようなことを言うヤツ」と、よく言われていた。自分としては、人から注意されれば反省もしたが、それでも本音では、『それしか出来ない』という思いと、『それこそが個性だ』という思いが半々だった。


 年齢が20歳を過ぎると、学生であっても成人である。みんなで酒を飲む場面も出てきた。
 俺は酒が全く飲めない体質なので、頑なに断る傾向が強かったが、そういう時も、「きちんとお酒を練習しないといけない」と諭された。自分でも、飲める範囲は無理して飲んで、2〜3度潰れたこともあったが、そんな俺を自分では褒めていても、周りは「あんなの飲んだ内に入らない」と手厳しかった。
 学科のエッセイ提出や卒論などで、高校時代よりはるかにパソコンを使わなくてはならない機会が増えたが、相変わらず自分は適応出来ず、パソコンのいろんなトラブルや自分自身の誤操作に振り回せれては、一人キレていた。周りに誰もいない時は、自傷行為連発だった。


 卒業近くになると、みんな日本から企業の情報を取り寄せたりして、就職活動を始めた。草創期のインターネットを駆使している人もいたが、俺には何だか他人事で、経済がどうとか政治がどうとか、とんと興味が沸かなかった。そんな俺のことを周囲は心配していたが、当の本人の目にはみんなが、『自ら世の中の既成レールに自分をはめ込んでいっている』という様に映っていて、「そんな人生は嫌だ」と、一人マイペースを貫いていた。というより、消去法でマイペースしか行き場が無かった。


 “世の中に無関心、経済は解りません、もし就職して会社に入ったら、自分の持ち味を活かして真面目にやっていれば、会社には好かれるんだ。上司におかしなことを言われたら、ちゃんと自分が納得するまで話し合ってみる” こんな考えを本気で持ち続けて譲らなかったから、周りは呆れて、「お前はどこまでも世間知らずなヤツだ!」と斬ってきた。
 友達には恵まれていた一方で、“世間との深い溝”を感じざるを得ない場面が、随所に現れてくるようになった。
 服装に関してもいろいろ言われたことはあったが、今でもファッションのことはサッパリ分からない。


 俺はどこかで、世間というものを知ってはいるような気が、つまり世間の風そのものには気付いているような気がしていたが、そんな世間の感覚と同化出来る方法を、全く知らなかった。
 ある時友達が訊いてきた。「お前は兄弟はいるのか?」俺が「いや、ひとりっ子だよ」と答えると、相手は途端に合点いったという顔をして、「ああ!だからそんなに世間知らずなんだ。大体ひとりっ子って、みんなお母さんにやってもらうし、競争も無いもんねー」と言われた。
 この言葉は、この先社会に出た時に、ますます周りから言われることになる。


 留学は4年で終了した。最後はギリギリ、綱渡りの様な状況で卒論の提出が間に合い、卒業に必要な単位を取得出来たのである。4年間を通じて、当然外国人の友達も出来(これも最初はなかなか友達作りが難しかったが、何ヶ月か時間を掛けて出来た)、英語で普通に会話していた。
 英語そのものに対する抵抗は、別段なかったと思う。早口を聞き取るのはしんどい時があったが、それなりにコミュニケーションはこなせた。そういう意味では、何とか語学的には付いていけてたのだ。


 ただ、映画は最後まで苦戦したな。何回いろんな作品を観に行っても、シリアス系であってもコメディーであっても、あとから友達に補足を入れてもらわないと、英語を集中して聞き取るのは難しかった。
 ハッキリ聞き取れたのは、一度ビートたけしが出ている映画を観て、たけしが日本語で台詞を言った時ぐらいかな。



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