プレイバック:社会人若年時代

 以下の文章は、2008年2月28日に公開したエッセイ 『こんな俺でも生きてはこれた 〜希望無き船出だった就労航海[前編]〜』より抜粋したものである。

 例えば、普段アルバイトをしている時の事である。私は日々精一杯働き、バイト先に貢献していたつもりではあるが、周囲の評価は相当厳しいものがあった。
 当時、日常的に言われていた事である(順不同)。

 @「お金を取りに来ているのに、仕事が遅い。○○さんは、同じ時間内でもっと速く仕事をこなせる。」
 A「普通その年(22歳)になったら自然と備わってくるはずのものが、お前には備わっていない。」
 B「もっと頭を使え!仕事は考えてしろ!何回言わせるんだ!頭を使え!」
 C「もっと周りの動きを読め!勝手に動くな!思い込むな!そこまでで終わらせていたら、仕事じゃない。」
 D「仕事は段取りと要領やぞ。分かるか?お前はその両方が悪い。」
 E「物事を、1から10まで説明しないと分からない。」
 F「その年になって、何でもっと『稼ごう』と目の色を変えないのか、不思議でならない。」
 G「良いか。仕事というのは、『何を、どうしたら、どうなるか』という事を考えて判断する事だ。」
 H「お前はどの様に気を遣っていいのかが分からないから、気を遣う事に対して気を遣っているのだ。」
 I「知らない事は決して恥ではないが、お前の場合はちょっと知らなさ過ぎる。」
 J「仕事を、基礎の基礎から教えないと分からない。」
 K「お前が会社に就職したとする。そこで何を怒られ、何が足りないと言われるか、手に取る様に分かる。」

 「何かこう、普通その年になったら、△△とか、□□をしようという気持ちになったり、◇◇に興味を持ったりするもんなんだけど、お前は全然そういうのが無いなぁ。」
 「決して焦る必要は無いけど、もっと自分からテキパキ動いて、ある程度世の中の動きにも対応していかないとね。そのままではちょっとしんどいよ。」
 「みんなもっと、すごい勢いで会社を回っていたし、第一卒業したのだったら、本来ならもっと稼いでないといけないのに、ずいぶん呑気だな。」
 上の文中に書いた△△や□□は、具体的には『自分からスーツを新調する』・『パソコンや車の運転などのスキルを身に付ける』・『社会的感覚や常識に明るくなる』・『人の言葉の真意(手口≒建前)を察する』・『新聞を毎日読む』・『就職セミナーを受ける』などを指す。そして◇◇は、『経済』・『社会情勢、世界情勢』・『一般概念、通念』・『営業など、各職種』・『周囲の目線』・『政治』などの言葉を当てはめたら良いと思う。

 履歴書の書き方についても、母に言われた事がある。
「何かあんたの履歴書って、すごく神経質な人が書いた物のように見える。それに普通、こういう事やこういう事は、書かないものよ。今度書いた時は、先に一度見せなさい。」

 自分が疑問に思う事や意見を言いたい事は、どこかでいつも、【本当は黙って順応するのが常識】と言われる事だった。
 一方、自分が全く無頓着で、注意すら向かない事というのは、ほぼ確実に、【本当は主体的に知ろうとして、絡んでいくのが常識】と言われる事だった。

 当時履歴書(『その他希望など』と書かれている欄)に書いた内容は、以下の通りである。

 『私は昔、学校で友達関係が大変苦手でした。そういう体験を活かして、心の豊かな人間になるよう、修行したいです。』(教育関係の会社を受けた時)
 『貴社のモットーである、笑顔の絶えない、コミュニケーション豊かな職場に≠ノは感動を覚えました。私もその様な職場でなら、すごく安心して働けるものと確信しています。』(どの業種か忘れたが、ある会社を受けた時)
 『まずは営業マンになって、様々な人生経験の修行を積みたいです。そして将来は立派なカウンセラーになってみせます。』(進学カウンセリングなどの事業を行う会社を、営業枠で受けた時)
 『留学経験者として、得意の英語力を活かせる事に、大きな生きがいを感じます。貴社で働ける喜びを、人にも誇れる様になったら幸いです。』(英語力が必要な、ある会社を受けた時)
 『お金をもらう事よりも、先ずはひたむきに一生懸命働いて、貴社に貢献したいと思います。』(どの業種か忘れたが、ある会社を受けた時)

 面接の時もまた然りである。やたらと熱意ばかりを強調し、「私はこの会社のおこなっているこの事が、本当に素晴らしいと思いました。本当に自分もぜひ、それを行う一員になりたいと感じました。」、「留学を通じて、いろいろ海外で大変な体験もして、鍛えられました。」などと、何だか誇張する様な表現ばかりしていたのだ。ある会社では、「社員のみなさんは、営業では毎日走り回られてますか?すごいですね。私もハングリー精神では負けない様にガンバリたいです。」と、これまた相当に【痛い】事を言っていたのである。

 もともと、『世の中で恥をかく』という事に対しても、自覚が弱く、反応も鈍いところが、私にはあった。今でもあるかも知れないが、その様な【社会的未成熟】な面がある一方で、こと身内に対しては、逆に自信の無い部分や弱点となる部分を隠し、構える傾向があったため、結局、改善策も工夫も凝らす事なく、同じ様な調子で履歴書を書き続け、面接を受け続けていたのだった。

 以上、随分長い抜粋になってしまって恐縮だが、これが社会人初期の私の状況であり、私が日々周囲から言われていたことである。
 就労・進路という点に於いて、まともに社会の壁にぶち当たった格好であったが、当然、いわゆる新卒での就職など出来たものではなかったので、社会人一年目の自分は、世に言う就職浪人であった。
 もともと学力の低さや知恵の少なさで悩んでいた私も、努力した甲斐があって進学に関しては、高校・大学とも浪人せずに済んだ(もちろん、それが全ていいという意味ではないが)。しかし就職に関しては、進路定まらずである。


 取り敢えず日々の生活のためにアルバイトを転々としていたが、周りの社員の手を焼かせ、イライラさせた挙句、自分の仕事のノロさ遅さをからかわれることもあった。「能力主義なんだから仕方がない」。これしか思わないようにはしていたが、内心ではかなり堪えていた。「辞めたい、辞めたい」と思いながらも、一方では、「いつも怒られることをなかなか注意出来ないのがもどかしい」と感じており、どの道次のアルバイト先が決まるまでは辞められる訳がないので、我慢して続けていた。
 結局、3ヶ月半ほど探してようやく次のところが決まったので、そちらに転職したが、ここでも毎日懸命に頑張るも、後輩たちが増えるに伴い、次第に追い抜かれるサマが目立つようになった。


 何百もある商品の知識を身に付けなければならない。しかし、なかなか思うように成果を出せずに苦しんでいる内に、何故か後輩はハイペースで覚えていった。
 ある時、新しい商品を陳列する際のレイアウトを任されたが、私は私なりに精一杯合理的に組み立ててレイアウトを組むも、私に任せた正社員の人からは、「どうも見るべきポイントや置くべき基準が違ってる(ズレている)んだなぁ」と言われた。私は「う〜ん!」と悔しがった。


 レジを担当した時の計算ミスも続いた。ある日、閉店後に集計したところ3,000円も計算が合わなかったことがあり、私も何時どういう状態で間違えたのか、全く思い出せなくて申し訳ない限りだったが、1円の狂いも無いようにこなすことが目標だったのに、本当にショックだった。さらにその週にもう一度、レジ業務についた時も。
 私は「前回の今回だから」と、リベンジとばかりに細心の注意を払った。ここで計算に狂いを出さなければ、信頼が回復出来るのである。しかし閉店後、満を持して集計すると、またも200円あまりの誤差が出てしまっていた。確かに金額こそ前回より少ない数字だったが、そういう問題ではない。
 ここまで注意したのに、繰り返された計算ミス。私はもう、すっかり途方に暮れてしまった。


 一方、自分の仕事のリズムを確立するので精一杯だから、後輩への指示出しを求められた時も、満足には出来なかった。
 「何とか先輩らしい振る舞いを」思い(焦り)から、何とか指示出しはやっていたが、恐らく的を射たものではなかっただろう。後輩から、「根箭さんは指示出しをちゃんと出来ないですね」と直接指摘されたこともあり、頭がすっかりフリーズしてしまったのも苦い思い出である。
 結局、この時の職場も最終的にはクビになってしまったが、最後まで、自分の目の前の仕事を覚えるだけで、全能力を使い果たしていた。


 ちなみに人間関係は決して悪くはなかった。ただ、特に同年代の女性スタッフと会話する時は、ズレたことを言って笑われてはいけない、と意識し過ぎたあまり、逆に会話がスベッて=A「ちゃんと人間の会話が出来るようになりや」と言われてしまったが・・・・・。


 さて、社会人初期の時代を語る上で、忘れてはならないことが一つある。それは、役者になることを夢見て、俳優養成所に入所したことである。
 役者を目指した動機については、これもこちらのエッセイより抜粋する

 一つは、たまたま、私が就職活動を始めてから2ヶ月という時期だった1996年8月、あの『フーテンの寅さん』を演じていた渥美清が亡くなり、それを機に、世が『回顧:寅さんブーム』となったことだ。(中略)『追悼:渥美清=寅さん再ブーム』に乗っかって、私も最初の何作かと、最後の何作かを観てみたのだ。そしたら、特に最後の何作かの作品が、強く印象に残ったのである。ちょうど寅さんと並行して、甥っ子の満男君が就職の壁に苦しみ、挫折をする一方、典型的な世間知らずで、アウトローを地でいっていた『オジさん』=寅さんに魅力を感じるという設定。どこか自分と重なる部分があった。

 二つ目のきっかけは、96年の10月に観た、寅さんシリーズと同じ山田洋次監督による、ある映画である。この映画は、知的障害者が主人公として登場するものだったが、(中略)ある場面に対して強烈に共感を覚え、思わず胸が震えてしまったのである。その場面とは、軽度の知的障害者で、一般企業に就労を果たしたものの、なかなか仕事のペースに付いていけず、周りからもからかわれていた主人公が、自分の能力と周囲の目線・期待とのギャップに苦しみ、悶え、挙げ句、「遠くで一人自殺をしようか」と考えるまでに追い詰められて、号泣するという場面である。当時の私の状況と、これもまた、かなり重なる部分があり、私の中で急速に、「自分も映画に出て、自分自身の胸の内を思いっきり表現したい。人々に語りたい。」という思いが、沸き出る様になったのだ。

 もし映画に出たら・・・・・、役者になって自分を表現する事が出来たら・・・・・、自分は、世の中に認められるかも知れない。そうすれば、自分に出来る事、そして何より、自分の居場所≠得られるだろう。それに映画に出て、熱演して人を感動させる事が出来れば、すごく大きな自信になる(後略)。

 読み返せば読み返すほど照れくさくなる、甘くて都合のいい動機であるが、ポイントが山田洋次監督作品と出会ったこと、というのは確かである。
 但し、こんな動機でフラ〜ッと養成所に入ったものだから、その後芝居の世界の厳しさを見るにつけ、付いていける自信はどんどん薄れていった。
 とにかく現場というのが殺気立った状況で、スタッフもかなりイライラしている。それだけ急がなくてはならないからだ。だから私みたいなドンくさい人間がトロトロしていたのでは、本当に迷惑なのである。
 「あ〜もう、サッサとせんかい。いつまで掛かっとるねん!」私は毎回のように急かされた。


 養成所主催の公演舞台にも2回出演したが、2回目の時は青年部と児童部の合同で、子どもも沢山いたから、大人として手本になる、落ち着いてしっかりしている側の人間でいなくては、という意識で行動していた。しかしそれでも班の人から、「社会人としてズレてる」ということを、楽屋の中でハッキリ言われたことがあった。既に言い尽くされた言葉ではあったが、さすがに舞台班のメンバーからも言われたとあって、動揺して表情が固まってしまった。


 本番が近付いたの頃、舞台上の動きに関して、先輩からある動きをするよう指示されたが、いざその場面が来た時に一瞬対応が遅れてしまい、それが理由でその役はあえなく御免となった。
 芝居だけではなく、ダンスもある公演舞台だったが、元よりダンスが大の苦手の私。稽古後は自主居残り常連、全部出来るようになったのは公演班中、早く見て最後から2番目だった。


 稽古の際、先輩から、「芝居の世界のリズムは、一般社会のリズムのほぼ倍速だ」と言われたこともある。
 ただでさえ動きが遅く、仕事場では叱られるのに、芝居の世界では余計に無理だと思った。それに、現場は常に慌しいから、何事も1回しか教えられない。私は1回で覚えられずにもう一度教えてもらうことが多く、撮影現場ではまさに言語道断であった。
 「役者をやっていくって、こんなに厳しいのかぁ」


 それでも夢があったし、現金な話が、高い入所金も支払って入所していたので、何年かは頑張らないともったいないと思った。同じ事務所の年配の人から、「お前、本当に売れたいんなら、大阪におってもダメだ。東京に行かなきゃ」と言われたことも何度かあるが、単身上京°ソきはカッコいいものの、自分の意思の弱さではそれもなぁ・・・・・・というのが本音だった。
 『夢は抱いても覚悟は決まらない』。そんな中途半端な根性のまま、銀幕デビューの夢は挫折に終わった。
 これからも演劇界では、新しいメジャーどころの俳優が、どんどん誕生してゆくであろう。



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