プレイバック:就職後のエピソードから

◇共通性と親近感◇


 『就職後のエピソードから』というタイトルであるが、はじめに少し、就職前のエピソードに触れる。


 私は、24歳だった1997年8月に、吹田市内のある作業所の、淡路島一泊旅行にボランティアとして付き添うという形で、初めて障害者と関わる体験をした。その時は知的障害の人や、てんかんの発作のある人の介護を体験したのであるが、仕事は大変ながらも、私は福祉の現場の空気に対して、『馴染める』と感じていた。
 障害者と関わりのある世界のほうが、自分にとってしっくり来ると直感したのである。とりわけ、初めて出会った知的障害の人たちに対して、その直感は強く働いた。
 何故そう直感したのか?今思えば、それは“いかにも”という話になるのだが、当時は何も分からなかったので、ただそういう自分の感性を大事にしようと思っていた。


 淡路島の旅行から8ヶ月後の1998年4月、私は地元豊中で、登録ヘルパーとして活動を開始した。
 やり始めたばかりの頃、何人かの自閉症の人と出会い、その人の特徴やこだわり、苦手な点などを聞いた。
 【パターンにこだわる、急な変化や動きが苦手、人見知りをする、物を与えられると暫くは眺めて過ごす】
 私はそれを聞いて、「なんや、俺と似たようなもんか。すごく近いやん」と思い、親近感を覚えた。以前勤めていた会社(アルバイトで)では健常者しかいなかったが、周りの空気に馴染めず、とにかく『異質だ』という感覚が支配し、疎外感さえ覚えていたものだ。その時と比べるとえらい違いだ。
 言葉も全くない重度の自閉症の人でも、雰囲気を見てごく普通に、「ウマが合うな」と思ったものである。


 その後も多くの知的障害者や自閉症、精神障害者と出会い、私はかなりリアルに共通性を感じることが多くなった。
 特に、軽度の知的障害者(療育手帳B2)の人と話をしている時には、どこが健常者と違うのか解らなくて内心首を捻っており、その人の特徴や抱えているしんどさを聞く中で、「これは私には当てはまらない」という特徴があった時に、初めて「ああ、違いがあった」と思ったのだ。
 

 私がヘルパー登録をしていた団体のイベント等でスタッフを務めた時、参加していた軽度の知的障害者と接する機会があった。その時、ほかの健常者スタッフや身体障害者スタッフは、健常者との違いが分かっていたのに対して、私は全然分からなかった。
 「どうしてだろう?俺は鈍いのかな?」と思い(実際鈍いし、過去何回も人から『鈍感』と言われてきた)、ほかのスタッフに、見分けるポイントを聞いてみた。
 そしたら、返ってきた答えを聞いて、ますます混乱してしまった。というのも、彼らが語ったポイント(=軽度の知的障害がある人によく見られる傾向)というのは、私でも状況次第では充分起こり得ることだったからだ。


 「何や!そのぐらい俺もほとんど一緒やから、わざわざ『軽度知的障害』と言わなくても、健常者と変わらへんわ」と、一人納得出来るように捉えていたが、今思えばこれも、遠い先に訪れる『自分発見』への旅の序幕だったと言える。のちに発達障害の当事者と出会った時も、状況は全く同じであった事は言うまでもない。













工夫して下さい


 ここからが、正式に就職して以降の話となる。登録ヘルパーとして3年間活動した私は、27歳の時に、登録していた障害者団体の正職員になった。晴れて就職を果たしたわけであるが、当然、責任は重くなり、周囲からの目線も厳しくなってくる。


 この頃一番言われていたことは(というより、昔から親にも言われたし、最近でも周りから言われる事はあるが)、工夫して下さいという言葉だった。何かがどうしても分からなくて、ヒントがあればと思って人に訊いた時に、「それは自分で工夫すべき」と言われたのだ。
 そのように言った人は、恐らく私が工夫するという作業を怠り、あっさり人に頼っていると思ったのだろうが、正直言って、私自身は精一杯工夫をして、その上で行き詰まったから訊いていた。
 だから、甘えもあっただろうとは思うが、自分で出来る工夫をしても、最初から工夫をしなかったように見られるのはショックだった。もちろん、そこから立ち直って頑張ろうという気持ちはあったが。


 工夫≠ヘ、臨機応変に次いで、私が聞いて「ドキッ」とする言葉である。私自身も工夫という言葉は使うことがあるが、正直な話、自分が言われた時は、『工夫して下さい』がそのまま、『障害の特性上出来ないとしても、出来て下さい』という意味に聞こえてしまうことがあった。もちろん、これは一方的な私の解釈であって、実際には言われた当時は、自分に障害があることも判っていない。
 「工夫して下さい」と言われることを警戒し過ぎたのかも知れないが、分からないことでも、質問するタイミングを間違えたり、どこまでが自力で頑張るべき範囲でどこからが周りに相談して良い範囲か、境界線を見誤ることがあった。これは公私問わず、その後も(恐らくそれ以前も)ずっと私に付いて回っている課題である。


 21世紀最初の年に就職をした私、時代背景的に見て、就職したからには絶対に出来る様にならないといけないのが、パソコンであった。
 私は高校の授業で初めてパソコンを扱ったその時から、とにかくパソコンが天敵でアレルギー反応を起こしていた。大学時代も、いろいろな課題提出や、卒論などで、パソコン入力をしなくてはならない場面は山ほどあったが、当時は学習出来なかった。
 まあ、自分が拒否し過ぎていたからだろうが、人の意志が通じず(相手は機械なのだから当たり前)、融通が利かない存在のパソコンに対して、キレること仕切りだったのである。


 パソコンに対してキレている時は、心のどこかでパソコンに自分自身を投影していた。
 即ち、グズでノロマで、そうでない時はあらぬ方向に暴走し、自分に出される指示が理解出来ず、人をイライラさせる行動を取ってしまう自分である。
 また、いわゆる旧来の『お役所気質』や『大企業体質』、『国のお役人』など、理不尽を強要して融通の「ゆ」の字もないイメージの人たちが、パソコンとダブッてしまうことが多かった。
 丸で世の中に立ちはだかる敵の象徴のように映ってしまったものだから、目の前に座っただけでピリピリしていたのだ。


 だから全くパソコンが出来なかった。ワープロ機能だけは辛うじて使えていたが、それ以外は触ろうともしなかったし、当時から実家にもパソコンがあったが、見向きもしなかった。一生パソコンなど、マスターするものかという気持ちでいたのである。


 就職を機に、そういう自分から遂に脱することになる。私は、グッと自分の感情を押さえ込むよう徹しながら、ひたすらパソコンと格闘していった。
 そうすると、やはり人間、必要に迫られると変わるもので、手の平を返したように、日常的にパソコンを扱うようになった。最初の1年で、日常の業務には半分は困らないぐらいにスキルを身に付け、2年経つと一部ホームページも扱うようになり、3年経ったら自分のホームページを作っていた。
 いろいろ学習能力の面でしんどいものがある中で、パソコンだけは、よもや想像もしなかった大変身となった。


 さて、正職員になった私が、最初に与えられた担当というのは、点字名刺作成であった。元々全く点字を知らなかったところ、急に点字名刺担当を割り当てられて、慌てて一から点字を勉強した。当初苦戦すると思われたが、不思議とあまり苦労はせず、基礎的な点字だけで見るなら、自分でもビックリするぐらい早く覚えられた。点字に対しては、どうやら受け入れられるタイプだったようである。
 点字をマスターすれば、次にマスターしようと目標を立てたのは手話である。
 今でも、点字と手話、両方出来る人というのは出会ったことがない。自分がそういう存在になれればと思ったのであるが、結果は挫折に終わった。


 点字と手話、何がそんなに違うのだろうか?
 点字は飽くまでも文字であり、形ある存在だから、実際には目が見える私は、点字を見て′`を頭に入れ、成り立ちや法則を覚えてマスターしていくことになる。これは自分にも出来ることだったのだ。
 それに対して手話というのは、形がなくて手の動きで覚えるものだから、見ていても瞬間瞬間で形が変わっていき、それを例えゆっくりでも、手で真似ようとすると付いていけなかった。


 さらにどういう訳か、手話に関しては目の前のお手本どおりにやっているつもりが、左右逆向きになってしまうことが多かったのだ。
 まさに鏡文字ならぬ鏡手話。幼い頃、ひらがなの練習をした時は、極端に覚えるのが遅かったり、鏡文字になるということはなかったが、手話に関しては、どうやらそれが出てしまったようである。
 手の動きを頭の中で構成したり、それを連続して形として再生出来るようになったり、左右の向きやスピードを考えるのは、点字では対応出来ても、手話では対応出来なかった。


 白状すれば、そんなに一生懸命手話を練習したとは言えない。だけど、付いていける事といけない事、対応できる状況と出来ない状況、その差があまりにもハッキリと存在することを、思い知らされる機会にはなったかも知れない。













◇今の今<Wレンマ◇


 正職員として最初に与えられた担当である点字名刺は、いざ始まると連日、多くの注文を捌くのに必死になった。何しろ、数千枚の注文が入り、それを一手に捌かなければならないのだ。
 単に名刺に点字を打つだけではない。完成した点字名刺は、100枚ずつに区切り、新聞紙などで包んで梱包する。私は手先が不器用なため、包んだり梱包したりする作業が苦手である。きれいに包んだり、箱を丁度良い大きさに切ったりするのは、得意な人は一瞬でこなせるかも知れないが、私は大変時間が掛かるのだ。
 点字名刺は、枚数もさることながら、一連の流れが相当手間を要する仕事であった。


 その一方、介護の仕事も非常に忙しくなり、中でも私を苦しめたのが、急に介護に穴が空いてしまって(つまり、ある利用者の介護に行くべき人が急に行けなくなって)、ピンチヒッターで介護に走らなければならなくなった時である。
 介護自体が嫌な訳は決してないが、それでも点字名刺など、事務所の仕事が立て込んでいる中、否も応もなくその場から離れて介護に走らなければならないのは、精神的にはつらかったし、一時は同じ介護者によるドタキャンの“穴埋め係”が続いた上、ドタキャンの理由が、どう贔屓目に見ても「止むを得ない」とは言えない理由だったことから、それに対して強いストレスを感じていた。
 夕方、「今日は点字名刺の仕事がたくさんあるから残業だ」と思っていると、「ごめん。介護者の○○、今から介護なのに急に体調崩しちゃった。代わりに介護に入って」と頼まれるのである。それも『あとで手の空いた時』ではなく、『今の今』入れと・・・・・。
 


 『今は絶対に持ち場から離れられる状況じゃないのに、絶対的に急に違う場所へ移動しなくてはならない』
 これは自分にとって、最もパニックに陥る条件の一つであった。無理なタイミングでの場所の移動や、予期せぬことへの急な切り替えが、私にとっては天敵であり、自分で決めた流れを崩されることが、ともすれば『自分を否定されている』という気持ちとも結び付きかねなかったのだ。
 自分の身体は介護をする現場に居ても、頭の中は『事務所の仕事モード継続中』となってしまうため、混乱を抑えて介護に集中するには、余程の努力が必要だった。


 「俺、今日、点字名刺せなあかんねん。事務所忙しいねん」という認識が、自分の主軸となっているから、本当にその日の内に仕事を終わらせないと、気持ちが落ち着かない。
 夜になり、介護が終わった後、私はしばしば、バス・電車・徒歩で計小一時間掛かる事務所に、一目散に戻っていた。そして当然のように点字名刺を再開し、全部終わるまで帰る気は全く無し。ようやく完了して時計を見た時には、深夜1時を回っていたこともあったが、そんな時でも私は「それがどうした?」という気持ちで、淡々と梱包作業をしていた。


 「やるはずの仕事をやった。ただそれだけ」。後のことには丸っきり無関心で、終電がとうに無くなっていても、「だったらタクシーで帰ればいい話だ」と思っただけだった。
 そんなことが何回かあったが、いつでも自分は、「その日の仕事なのだから、その日に仕事を終わらせるのが当然。終わらせないまま、介護から直接帰宅してしまったら、一晩中イライラして寝られないし、とにかく、やっているはずの仕事はやっておく」、それだけを考えていた。
 ちなみに“やっているはずの仕事”の中身は、点字名刺以外にも、例えば締め切りが間近に迫った原稿の校正とかがあった。
 たまたま終電に間に合うこともあったし、タクシーを拾おうとして流しが現れず、事務所から徒歩10分ほどの最寄り駅から乗って帰ったこともある。


 今も昔も、介護者の数は足りているとは言えない。私も昔は、定期でも相当介護に入っていたが、それとは別に、本来なら明日は事務所で仕事だったところが、急に一日介護になったという事は、いろいろなケースに於いてしばしばあった。
 どうしても事務所に来たかった場合はやはりパニックになるので、そういう時は前日に可能な限り残業し、翌日の業務を前倒ししてこなすよう、努力した。


 さらに、あるケースでは、入れる介護者の数が極端に限られており、『誰と誰が都合が悪かったら、その時点で私は、自分の都合が悪くても、絶対的な穴埋めとして介護に入る』と決まっていた。
 さすがにこういう状況は長くは続かなかったが、人間、あまりに選択の余地がなくなってしまうと、精神的に過度に受け身になり、無気力のようになってしまう危険がある。どうしても都合が悪い時に、断れる余地があるという事がいかにストレスを和らげるか、いろいろな経験を通じて実感した次第である。













◇ボイスワープ◇

 「これに慣れることが出来る人って、一体どうやって慣らしたのだろう?」
 私が本気で不思議がり、自分自身は慣れるのに大苦戦をしたのが、ボイスワープである。転送電話とも言われ、要するに時間外に誰かが事務所に電話を掛けると、ボイスワープの当番の人の携帯電話に掛かってくるというものである。


 職員になって2年ぐらいして、私もこのボイスワープの当番をする一人になったのだが、最初は神経が全く付いていかず、パニックになっていた。
 というのも、ボイスワープの当番をやってみて初めて分かったのであるが、私は“オン”と“オフ”は完全に切り替わっていないと、精神的に耐えられないのである。それはもちろん、休みの時に仕事の電話が掛かってきたり、朝寝ている時に、急に「介護に来て」と電話で呼び出され、慌てて飛び起きて現場に急行したこともある。しかしその時は、相手は私に掛けるつもりで、私の番号を押すのである。


 ボイスワープの場合は、電話に出ているのはオフの時間の自分だが、掛ける相手にとっては飽くまでも事務所に掛けているわけで、私は事務所で対応している振りをしないといけない様な格好になる。
 つまり、“その時だけ事務所対応”、“その時だけ仕事”なのである。電話の前後は自分の時間なのだが、急にある時間帯だけ、『公の時間』が割り込んでくるのだ。


 実際にボイスワープを何回か担当して気付いたのだが、私はこの、『急に違う場面が割り込む』とか、『ここだけ別の場所にいる設定』というような、突然の状況変更に耐えられないタイプであった。
 当初、私がこんなにも苦しいから、ほかの職員もさぞ苦しかろうと思って聞いてみたところ、思いのほか普通に耐えられると言われて、ビックリしたことがあったと思う(うろ覚えだが)。
 

 私は、『耐えられる人』というのは、それだけ自分を鍛えていて、根性の構造が違う、強い人なのだと思った。
 それだけ精神が頑丈だから、耐えられるのだろうと思ったのだ。最も、一つには慣れというのもあるだろうから、当面の目標は『慣れること』だったのだが、何年も続けてみて、『慣れた』というよりは、『もう、しゃーない』という、“いさぎよい諦め”みたいな気持ちが、決着点となった様な気がする。
 ボイスワープの要員になってしばらくした頃、職場の人の入れ替わりが激しくなり、欠員が出たりして、私と当時の管理者の、2人だけでボイスワープを担当したことが、6週間ほどあった。当番は1週間交代なので、2週に1週は当番ということになる。神経が持たなくなりそうだと感じたが、やはりもっと強くならなくては、と言い聞かせた。


 時間外に電話が掛かってくることは案外多く、深夜、風呂に入ろうとした瞬間に電話が鳴ったり、自分の用事のほうが緊急事態に近い時に、全然急ぎではないボイスワープを優先しなくてはならなくて、ジレンマを感じたこともあった。
 休みの日に、朝早く起こされたことは数知れず。いずれも用件は、「今日は事務所休みだからまた明日」と返すしかない内容だった。
 何故か年末年始の当番に当たる割合が高く、元日と正月3日の朝に、普段事務所で受付をしている、ある予約の電話で起こされたことがある。


 昔から、電話で急に起こされると、身体のリズムの乱れを一日引きずる傾向があった。だからボイスワープをこなすには、そうした自分の体質との闘いを制することも、大切な役目である。ただ、一度3連休の時に、3日とも朝の早い時間帯にボイスワープで起こされ、身体のバランスが崩れた状態を引きずったまま、数日後に頭痛でダウンしてしまったことがあった。
 さすがにその時は、「本末転倒や」と、ショゲてしまったが、人間、誰にでも体質はあるのだから、ある程度は克服出来ても、あまり極端になると限界になってしまうのは、致し方ない。


 極め付けは、祝日の朝、3時間半の電話対応をしたことか。例によって電話で起こされ、漸く電話が終わった時には身体がガクガク震えていた。寒かったのではない。トイレの我慢が限界に近付いていたのだ。自分の家のトイレなのに、他人のタイミングによってようやく駆け込めた。


 11年間ボイスワープをやってきたが、これからも職員をやっている限り続いていくと思う。当番の間、全く掛かってこなかった週だってあるから、ずっとしんどいばかりではない。
 今は最低でも4人は要員になっているので、かつてのような『2人だけ』ということは、もうない。また、初期の頃は、掛かってきた電話に出るといきなり「もしもし、支援センターですか?」と相手の声が飛び込んできたのだが、何年か経った頃から、『この電話は、○○より転送です』と、音声アナウンスが先ず流れるようになったから、心理的にはずっと楽になっている。


 2014年4月からは、相談支援専門員に仕事用携帯電話が支給されるようになった。プライベートの電話でひたすら仕事のやり取りをする状況からは解放された反面、これによってますます、時間外も常に時間内の部分が残る環境になった。













◇「パソコン使わせて」◇


 日頃、事務所で勤務している時の私は、完全にパソコン業務である。具体的には、名刺のレイアウト作成や、広報誌の原稿作成、ホームページの作成・更新で、ハードディスクや接続ケーブルの関係上、自分のパソコンでしか行えない業務があった。また、ほかのパソコンは別の職員が忙しく使っていることが多いので、そうそうは空いていないのが実情である。


 「根箭さん、ちょっと10分ほどパソコンを使わせてもらえますか?」
 こう言われることが、毎月必ずあった。実は私が使っていたパソコンが、同時にほかの部署のあるデータを送信するための機能を備えた、唯一のパソコンになっていたのである。そのようになった経緯はよく覚えていないが、取り敢えず偶然そうなった。


 発達障害だと判った今、振り返ってみると、「パソコンを使わせてもらいますか?」は、最も自分をしんどくさせる状況であった。何故なら、自分の特性と仕事の性質、どちらをとっても、急に持ち場をのかないといけなくなるのは、有り得なかったからだ。

 私の仕事は、或る意味【呼吸仕事】だと感じている。つまり一度集中し始めたら、電話対応で中断するのは仕方が無いにしても(それも私の業務だから)、一気の呼吸と連続性でもって行わないと、リズムが乱れ、自分の中でものすごいストレスになるのだ。


 具体的には、広報誌やホームページの記事作成は連続した集中力が必要で、しばしば生みの苦しみ≠伴う。大抵は、取材や講演の録音起こしをすることから作成がスタートしていく。
 録音起こしは、本来は没頭出来る環境でないと出来ない仕事である。故に家にレコーダーを借りて帰って、前もって聞いておくこともある。
 ホームページ上の記事作成では、長時間にわたる録音を聞きながら内容を抽出し、文章を組み立てなければならない。その時、下手に集中を妨げられると、せっかくまとまりかけた文章が消滅し、組み立て直すのに、相当な神経を費やすことになるのだ。


 注意欠陥多動性障害(ADHD)とも関係しているのかも知れないが、私は講座や研修を聞きに行った時、最後まで集中して聞いて、それをすぐに頭の中で整理することが大変苦手だ。さらに記憶力にも問題があるから、1〜2日を置いて報告記事を作成しようとした時には、もう一度聞き直す必要がどうしても出てくる。
 講座や研修は多くのことを学べる機会だが、聞きながらメモを取るのも苦手な私にとっては、録音こそが命である。この録音を真剣に聞き、注意深く文章を練ることで、初めて公にしても恥ずかしくない記事が出来上がる。


 インターネットの世界では速達性も求められるので、ある程度は急いで仕上げなくてはならない。そうでなくても、ほかの仕事のことを考えたら、あまり時間はない。だから、出来るものなら電話も何もシャットアウトして、今浮かんだ文章が消えない内に一気に入力したい。これが、正直な訴えなのである。
 そこへ、「パソコン使わせて」とこられる。私は、前もってメールや電話で予告される(それを人づてに聞く)のなら、まだ対応出来るが、どうしても受け付けられないのが、“急に横に来られる”ということだ。
 一種の恐怖症なのかどうか自分でも判らないが、不意に横に人が立っていて、しかも自分にとって最も不都合なことを要求されたとなると、理性がぶっ飛んでしまうほどパニックに陥るのである。実際、何度も混乱が全面に出た反応をしてしまっていたが、自分の中ではこれが、相手へのサインのつもりでもあった。


 『今、相手が来たということは、相手にとっては今が都合の良いタイミングだという事だ。でも、相手にとっては良くても、自分にとっては悪いのタイミングで、しんどい・・・・・』
 日頃、私が誰かの机に行く際も、ギリギリまで「タイミングは大丈夫かな?○○さん、ストレスにならないかな?」と、注意を払うようにはしている。私だって、直接誰かの机に行った時は少し観察しないと、いきなり声を掛けたのでは、その人が手が空いていそうかどうか、判らない。


 過去に何回か、「前もって連絡してから私のパソコンのとこへ来て」と、相手に伝えたことがあった。いや、正確に言うと伝えたつもりだった。しかし状況は変わらなかった。
 「ちゃんと伝えたのに、何故だ!」と、言いようの無い疑問を感じていたが、発達障害と判定された際、診断テストの結果に関して臨床心理士から言われたことを聞いて、一気に謎が解けた。
 「根箭さんの障害のしんどいところは、相手に自分のメッセージを伝えたいと思っても、相手に伝わるように言うのが苦手だということ。自分では伝えたつもりが、相手には伝わっていない


 ・・・・・・ああ、そうか!結局は障害だったのか。どおりで何も状況を変えられなかった訳だ。伝わらないように伝えていたのだったら、それはもう仕方が無い。何だか遣る瀬無い気はするけど、これで謎は解けた。


 まだ解決出来ずにいた頃、私は考えていた。
 「自分がしんどい問題を解決させることは、相手にとっても、時間の無駄を少しでも減らせることにつながる
 つまり、わざわざ階段を上がったり下りたりして、事務所間を行き来することは、相手にとってもタイムロスになるのである。いきなり私の机に来て、すぐにパソコンを使えることは先ずないから、もう一度、自分の事務所に戻ってもらうことになる。それは私としても決して気分がいいとは言えなかったし、かと言ってやはり急に来れば、空振りに終わるリスクが発生する。


 相手だって毎日非常に忙しい。そのことを重々理解していた私は、自分のタイミングとぶつからない様にすることで、相手の仕事にとっても効率面でプラスになればと考え、「先ずは自分のいるデスクから電話して、こちらの状況を確認してちょうだい」と言っていたのだ。
 結果的にこの試みは不発に終わったが、『パソコン使わせて』の現象そのものは、私自身が上司に再三に亘って解消を要求したのも効いて、ある時、7年越しに漸く解消を見た。「持ち場をのくのが仕事」という不本意な役割は、終結したのである。


 解消後も、仕事が立て込んでくる度にフラッシュバックが起こり、思わず『うわっ!』となっていたが、それからさらに2年が経ち、障害の診断も下された現在、フラッシュバックは急速に無くなりつつある。













◇クリパ設営班長◇

 毎年12月中旬、年間最大規模のイベントであるクリパ(クリスマスパーティー)が開催される。
 当日の実に半年近く前から、『食事』、『ゲーム』、『受付』、『司会』、『演し物』、『飾り付け』、『設営』など、各役割に分かれて準備を重ね、クリパ前日午後と当日は、会場となる建物をほぼ全館(地下1階〜地上4階)貸し切るのである。


 このうち『設営』の班長を、私は7年間務めていた。会場は体育室で、キャパシティーは200人、参加者の定員は120人なので、かなり大掛かりな準備(片付け)作業が必要となる。
 守備範囲は、会場の建物全部。先ずは会場である体育室の床にシートを引き、各階から机やイスを運び込んできてセッティングすると共に、飾り付けとも連携して動いていくことになる。


 ここで大切なことは、設営作業はみんなが手伝ってくれて、しかもその中には休日返上の人もいるから、とにかく、作業する人たちのタイミングに間に合うように、指示出しをしていくという事である。
 しかし私は、どうしても自分の組んだ順番どおりにしか作業を進行出来ず、同時に複数の人から次々に訊かれると、すぐ混乱するという問題があった。
 不意に、まだ先の順番に対して質問が飛んできたり、先に先にと指示出しを促されると、パニックに陥るのである。そうなると、パニックを抑える事そのものに、全神経を費やされる。
 それだけではなくて、『自分自身が衝動的に動いてしまう』という本来抱えている癖を抑え、指示出しに集中するというのは、相当な注意力が必要なことだった。そもそもが、全体を同時に見渡すのが苦手である。


 私自身が必死に頭の中を整理して、周りの動きに付いていこうとしている状況の中、周りは私のペースに先んじて、「これはどうするの?」、「次はどうするの?」、「これは先せんでもええの?」と、指示を求める質問をしてくる。
 自分の頭の中は、既に固まりかけているが、現実のペースは決して遅くはならない。
 周りのペースに間に合うスピードで反応するのは、班長としての重要な役割なのだから、何テンポか遅れながらも必死に対応し、指示を出していた。
 それでも、指示出しに対しては、反省会で毎年課題が付いて回った。当然だろう。人の動きに付いていけない人間が、人の動きより更に先頭に立って指示を出そうとするのだから、評価が思わしくなかったとしても、仕方のないことだ。


 その一方で、前向きな評価をくれる人もいた。優しい評価をしてくれたのかも知れないが、反省会で、『動きやすかった』、『作業の流れは良かった』という評価を聞いた時は、やはり励みになったし、「こんな自分でも何とか班長という大役をこなすことが出来た。また来年も頑張ろう」という気持ちになった。


 「もう少し全体的に待ってくれたら・・・・・」と思うことはあっても、周りだってこの後仕事が控えている人だっているし、元々人手も、特に男手が足りていない。
 事前に段取りは何回も何回も自分で作った資料を見て確認するが、いざ作業が始まったら、何らかの不測の事態が発生するのも仕事である。臨機応変≠ニいう言葉を何より苦手にしている私にとって、『急に判断しないといけない』というのは、いつでも恐れる事態だった


 何人か、代わりに仕切ってくれる人がいる時もあったから、その時は助かった。それで多少自分の組んだ流れと違う進行になっても、仕事のやり方は絶対的に1つというわけではないから、こちらも対応しなくてはと思った。
 パーティーの動員数は多いし、設営要員も、男手こそ不足であるものの、トータルでは皆がんばってくれるし、特に当日の片付け作業の時は、常連の参加者もよく手伝ってくれた。
 お金を払って参加している上、片付けまで手伝ってくれるのだから、本当に有難い限りである。
 こういう思いを味わっているから、私自身も、ほかの団体が主催のイベント等に参加した時は、時間の許す限り、片付け作業を手伝うようにしている。


 人が手伝ってくれる有難みが分かる一方、自分自身の手際が悪いから、手際良い人に対しては、内心気後れもしてしまう。
 片付けの際は、原状復帰が重要な任務になるから、最後は全館を駆け上がっては駆け下りて、関係全階の全部屋をチェックしていた。なかなか完璧にはいかないもので、机の片付け場所が間違っているなどのトラブルが発生することがあったが、そんな時でも会場の守衛さんにも何とか協力してもらい、注意は当然受けるものの、最終的には事なきを得て、ホッとしたものだった。


 前日設営も当日片付けも、充分ではない業務時間の中で、前もってのチェックや準備で忘れる箇所があったり、とにかく毎年、焦っていた印象しか残っていない。
 『動く vs ジッとしている』、『自分がする vs 人にさせる』
 非常に大きな、かつ難しいテーマに直面していた、設営班長の日々だったと思う。
 【本来の健常者らしい頭の回転と同化させよう】と、もがいていた時代に於ける、一つの象徴的体験かも知れない。













 就職して14年目。
 私の職場というのは、営業ノルマや売り上げ目標が常に掲げられたり、何か起こると合理化でリストラの嵐が吹く一般企業とは全く違う。こういう職場だから自分も何とか受け入れられ、続けてこれたというのは自他共に認めている。
 最初にヘルパー登録してからは17年目となるが、上記の体験や、【ベテランと言われるプレッシャー】など、色々なことがある中でも、自分が続けていける人間関係に恵まれたことについては、言葉では言い尽くせないほど感謝している。



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【40歳からのニューアイデンティティー  広汎性発達障害と診断されて】