生涯レアな体験No.1【運命の報告】

 2013年12月24日、私はTクリニックにて、先生より診断報告書を受け取った。これは、1週間前に広汎性発達障害と診断が下された際、私が先生に、「上司に提出したいから、報告書を作成してほしい」とお願いしていたものだった。
 もともとTクリニックは、上司がインターネットで見付けて私に紹介してきたものだったし、その時から既に8ヶ月が経過していたが、間もなく年の締めを迎えるにあたり、区切りとして、診断を受けたという旨とその結果詳細を、口頭だけでなく書面も添えて報告したいと思ったのだ。


 報告書を受け取った翌日が上司と会う日になっており、本来なら当然、その際に報告するはずであった。ところが、いざ受け取った時点では、それが当面無理という状況に、変わっていたのである。
 一体何があったのだろうか?
 実は、これより4日前の12月20日、職場の事務局会議の席上、上司から或る重要な報告がなされた。内容は、豊中市の障害者相談支援事業の新しい体制についてであり、先ずは以下にその概要を説明する。


 2014年4月より、豊中市に『基幹相談支援センター』が設立されることになった。
 これは行政と、民間による相談支援事業との連携強化のため、地域の相談支援体制の拠点として新たに設けられる機関で、行政と民間が共同で運営し、総合的な相談業務を行うとされている。障害当事者や家族などに対してワンストップで支援を行い、困難事例への支援や、各相談支援事業所の専門員への支援等も行うということである。


 基幹相談支援センターは、国の新しい法律により、各自治体に設置されることになった。豊中市でもかねてより設置の準備が行われていたが、いよいよ来たる2014年度より、操業開始となったのである。
 ちなみに、相談支援事業所というのは、これまで豊中市に於いては、どの障害も対象にトータルで行うところとしては、私の職場1ヶ所しか存在していなかった。そのため、基幹相談支援センターの開設に合わせて、実に8ヶ所の新しい相談支援事業所が開設されることになっている。


 さて、ここからが20日の会議での報告の内容であるが、いろいろな動きや状況の中で、現在私の職場の管理者をしている障害者職員が、4月から基幹相談支援センターに、“出向”することになった。籍自体は今の職場のままであるが、勤務地は変わることになるのだ。
 従って管理者の職(今の職場の)も辞めなければならず、そうなれば当然、後任の管理者を決めなければならないが、新たに管理者となる人の条件は、@障害当事者であること、A職員歴が長い人、B相談支援専門員をやっていることの3点で、これらの条件に適う人を、これから探すということであった。


 私は、たった今聞いた3つの条件を反射的に復唱していた。AとBが瞬間的に当てはまるのは認めるとして、問題は@である。
 ついこの前までは、私は非該当で“安心”だったのだが、この時は事情が変わっていた。これよりほんの3日前に、障害当事者と認定されていたのである!
 あと4日で、正式な診断報告書も手にすることになっており、それを持参して今横にいる上司にも、「このたび、障害者であることが判明しました」と打ち明けようと思っていたのだ。【障害者職員】という、新たな立場になるまでのカウントダウンが、まさに始まっていた訳である。


 そこへ突然飛び込んできた、今回の報告である。よもや予想だにしなかった内容に、私は全身が硬直し、喉が締め付けられるような感覚を覚えた。
 今このタイミングで聞く話としては、あまりにも衝撃的過ぎる!どんなに冷静に考えても、巡り合わせとしては最悪だった。
 何故か?私は管理者には絶対になれる器ではないし、管理職に向いていないからである。管理者ともなれば、自分のことばかりに集中していられない。何か周りから相談が来たら直ちに応じなくてはならないし、そのためには自分の仕事の流れを中断しなくてはいけない。
 ほかの誰よりも、制度を始めとする知識の吸収は速くなければならず、万事学習が遅くて学習障害も持っている私としては、大変な逆風となる。


 それだけではない。自分の仕事が忙しくても、『管理者だから』ということで、あちこちに顔を出さなければならない。社交性を持てず、自分の持ち場に固執してしまうのが特性である私にとっては、これも逆風であった。
 周りに神経を使い、全体を把握出来ているか常に心配しなくてはならない役職というのは、悪い言い方をすると、自分を殺してしまいかねなかった。
 いち社会人として、管理者に求められる働きや責任は、私も重々承知している。だからこそ、自分が力量技量ともに管理職が務まらないことは、痛過ぎるほど解っていたのである。恐らく、日頃から私をよく見ている周りの人も、全員解っているであろう。


 思えば、私が長年背負い続けてきた【健常者の看板】を外す意志を固めたのも、一つにはこのあたりのことが原因だった。
 すぐに周りが見えなくなる、連携・協調を図ることが苦手・・・・・、これらの特徴が自分に重くのしかかり、長らく『自分の性格のせい』、『自分の自覚の問題』と決め付けてきたものの、『本当にそれだけなのか?』という疑念は、いかんとも拭い去り難かった。
 そうして悩み抜いたのち、満を持して診断へと自らを導いたのだ。だから発達障害と認定された時は、「これで楽になれるな」と思った。自分を健常者に置き換えることばかり考え、背伸びをした人生を送るのではなく、自分の適性や特徴に見合った、等身大の人生が送れる、と・・・・・。


 そう考えていた矢先、いきなり聞かされた今回の報告。私は気が動転する中で、『皮肉だ』とポツリ心で呟いた。
 今までの重圧から解放されたくて診断を受けたはずが、障害者と判定されたら、かえってそれが根拠で、管理者にならないとおかしいかも知れない状況になった。
 生まれてこのかた、“出世したい”とか“偉くなりたい”などとは考えたこともないのに、障害者になったら、いきなりミスポジションの極地に立たされ兼ねなくなったのだ。


 『皮肉』以上に、言いようの無い『矛盾』も感じた。
 仮に本当に、管理者になるしかなくなったとしよう。その場合、最大の根拠となるのは、やはり障害当事者である事だ。
 しかしその障害の中身というのは・・・・・、これまで再三述べてきたとおり、素早い判断を求められるとパニックになり、臨機応変に対応したり機転を利かせたりするのが苦手、というものである。
 「障害当事者だから管理者に」となる一方で、その障害の特徴は、動きを見て判断するのが最も苦手(IQで見ても厳しい点数)で、「管理職にはふさわしくない」とされるものだったのだ。


 世の中、うまくいかないものだというのは、この事を指しているのだろうか?取り敢えずこういう思い掛けない急展開の中で、私は上司に診断の報告をするのを、当面延期することにした。
 こんな状況で報告したのでは、どう控え目に捉えても、『自分を管理者にして下さい』とアピールしていることになってしまう。
 あまりにも逆ピンポイント≠ネタイミングであるために、『管理者を探しているのなら、丁度ここにいるじゃないですか』と、上司に売り込んでいる様にしか、見えなくなってしまうのである。


 私やこれまでの管理者以外にも、障害者職員は何人かいるのだが、その全員が、何らかの理由により、結論としては管理者にはなれないのである(本人たちも辞退している)。ここで私も辞退すると言ったら、ある意味裏切りみたいになってしまうかも知れない。だから報告自体を最初からしないと決めた。「こんなはずではなかった」と未練も覚えながら・・・・・・。


 4日後、診断報告書を受け取るためにTクリニックの先生に会った時、私は先の会議で起こった出来事を掻い摘んで話した。そしてズバリ、
 「先生は、私がこのまま管理職に就いても大丈夫だと思いますか?」と訊いてみたのだ。
 答えを言う前に先生は、「発達障害者だから管理者に不向き、という様には、一概に言えないですよ」と言ってきた。「だって健常者にも、管理職に向いていない人がいるでしょう?」


 ああそうか。それはそうだ。この一言を聞いて私は、初めて先生に会った時のことを思い出した。
 思いが溢れるままに自分を語り続ける中で、『もし一般企業にいたら自分は付いていけなかったかも知れないが、障害者団体だから何とかやってこれた』と言ったのだ。ひたすら相槌を打っていた先生はその時に、
 「いや、付いていけないっていうよりも、あなたもう40歳でしょう?一般企業にいたら、恐らく管理職ですよ」と返してきたのである。
 その時は、『ああ、そう言えばそうなるなぁ』と思いながら遠くを見る様な心地になり、『まあ、管理職なんて世界は自分とは関係ないから、良かった』と安心していたのだったが、まさかその僅か2ヶ月後に、こんな大ドンデン返しに見舞われることになろうとは、初診の私には知る由も無かった。


 そしてこの時の質問の答えは、「根箭さんは障害のこともある分けだけど、根本的に、特徴や傾向からして管理職には就かない方がいいですね」というものだった。
 私は、大きな味方を得たような気分になって、正直ホッとした。
 この後、冒頭に書いた報告書を受け取り、厳密には私はそれを読んで、『注意欠陥多動性障害』と『適応障害』も併せ持っていることが分かったのである。多少キツい書き方もされていたが、客観的にはそう見えるのだろうから、仕方がないな、と思った。


 その後、年末年始を迎えた。あの、【生涯レアな体験No.1】と言っても過言ではない、会議での【運命の報告】から、一日一日と日は流れていったが、まだ余韻が残ったままで、心の中で半分は時間が止まっており、落ち着かない毎日であった。
 会議の翌日には忘年会も行われたが、あまり雰囲気に入れなかった。というのも、あの会議の終盤以降、私は俄かに喉に異変を感じるようになり、声がほとんど出なくなってしまったのだ。だから、盛り上がる場にいても、極力ものを言わずにいるしかなかった。
 翌週明けに医者に行ったら、『風邪で菌が声帯を襲った。薬を飲めば治る』と言われたが、薬の効きも遅く、迎えた今年(2014年)の正月も、声に不自由するままであった。


 今年の正月ほど、正月気分に浸れなかった年明けも少ない。
 自分の職場での立場は結局どうなっていくのか?『報告』を誰にもしない限り、絶対に矛先が自分に向くことはないのだが、一方で私は、今後、少しでも無理を感じずに仕事を続けていくために、本当のことを報告する必要がすごくあるとも感じていた。
 2つの相反する思いの狭間で、どちらに駒を進めたら良いのか、正月休みの間はずっと悩んでいた。やはり機を見て報告するべきか?だとしたら一体何時すればいいのだ?報告したら後のことは保障できない。でも、ずっと報告せず、あれほどしんどくなって“返上”した【健常者の看板】をまた背負い直すのが、果たして耐えられることなのか・・・・・?
 

 まんじりともしない夜ばかり過ごしている内に、早くも今年の仕事始めとなった。初日の朝から、いきなり目が回る忙しさで一杯一杯となり、ストレスを押し殺す表情ばかりしていた(同僚談)のだが、それから1週間後、1月10日過ぎになって、私は意を決して上司に『報告』した。この激務の中で、仕事の時だけ再び健常者の看板を張る気力が、もう湧かなかったからである。
 昨年12月に受け取った診断報告書を先ず手渡し、それを読んでもらいながら、“例の会議”以降、現在に至る私の心境を述べた。自分の癖はよく解っていたから、あまりしつこくなり過ぎないよう注意しつつ、正直に、『管理者にはなれません』と告げたのだった。


 それに対して上司からは、「診断の内容についてはよく解った」と先ず一言。そして、
 「まだ体制が不確定な内に、あまり君の障害のことが知られると、ほかのスタッフからも『根箭さん、管理者にならないのかな?』と一瞬思われる可能性があるから、新しい管理者が決まった後で、俺のほうから職員を集めて報告しておく。まあせっかくずっとウチでやってきたんやから、これからもずっと続けていけるように、していきたいからな」
 と、じっくり考えるように語ってきた。


 この言葉を聞いた時点で、少なくとも上司自身が私に対して、『管理者に・・・・・』という考えは持っていなかったことが、ハッキリした。寧ろ、同じそういう考えを持たれるなら、上司からよりも、同格の職員からではないのか?と気にしていた由であるが、私自身は正直、逆の考え方を持っていて、寧ろ同僚たちは、日頃から私という人間をよく見ているから、たとえ私自身が『管理者になりたい』と言ったとしても、反対されるだろうと予想していたのだ。
 そのあたりの真相は、敢えて知りたいとは思わなかったが、いずれにしても、これで大きな山を越えたわけだ。


 最後まで私の言うことを聞いて、全面的に理解してくれただけでなく、私の我がままかも知れなかった“例の思い”を、完全に聞き入れてくれた上司には、感謝の念が絶えない。発達障害者として、絶対に能力的な壁にはぶつかってしまうのだが、これで、ますます業務に忙殺されるであろう激しい時代も、乗り越えていけるかも知れないと思った。
 障害の報告をした際、上司には、『こういう障害のことは、自分からはなかなか打ち明けにくい。いい時期が来たら、本人に代わってスタッフに報告してほしい』というお願いもした。だから上記の、『俺のほうから職員を集めて報告』という言葉になったのである。


 この日は解放感溢れる一日となった。同じ解放感でも、このような内容というのは、ちょっとレアな体験になるのではないか?と我ながら思った。
 打ち明けられて良かったし、或る意味、これで新しいスタートを切れる、という意欲が湧いてきた。
 その一方で、肝心の管理者は結局誰になるのか、気になって仕方がない気持ちはあった。自分のことばかり喜んでいてはダメで、ちゃんと全体の体制も無事に決まって初めて、完全にホッとすることが出来るのだが、それから1週間近く経って、ついに新管理者が決まったとの連絡が届いた。


 最初に新管理者の名前を見た時、思わず「え?」と思った。理由はその人が健常者職員だったからだ。但し数日後、上司から思いも寄らぬ話を聞いた。実は新管理者になる職員は、以前からある障害があったというのだ。それを、今までは周囲にもあまり打ち明けておらず、普段見ている限りでは健常者だったから、私も全く知らなかったのである。
 「ああ、そうだったのか!でも、それならば無事、『障害当事者が管理者』という、事業所としての大切な要件を満たせたわけだ。あ〜良かった!!」私は諸手を上げて、今度こそ完全な解放感に浸った。


 上司に『報告』をしてから5日ぐらい経って、私の声の不調がようやく解消した。久しぶりに声を完璧に取り戻したのはやはり爽快で、友達にカラオケに誘われた時の気分が全然違っていた(笑)。
 しかし喜んだのも束の間、ようやく新管理者が決まった数日後に、私はノロウィルスに掛かってしまったのだ。激しい下痢と嘔吐で、特に嘔吐はここ9年全く無縁だったから、本当にキツかった。
 昨年12月に診断が下った直後は、2〜3日に1回という異常なペースで、偏頭痛が起こっていた。そして、それが治まるか治まらないか内に声がおかしくなり、1ヶ月近くかかってようやく元に戻ったと思ったら、今度はノロウィルスになった。


 まさに一難去ってまた一難。「どうなっとるんじゃ!!」と思うほど次々と不調に見舞われたのであるが、ノロウィルスが丸1週間掛かって治ると、今度こそ体調は完全に回復した。
 実は、私が1週間事務所を休んでいる間に、私の障害のことが、上司によって各職員に報告されていた。仕事に復帰して数日後に、上司自身から聞いて知ったのであるが、報告の際には、インターネットで偶然見付けたという、発達障害の特徴が分かりやすく書かれた資料を、各職員に手渡してくれたとのことで、そこまで手厚く配慮してくれたことに、今一度感謝であった。


 思えば私が丸1週間も事務所を休んだのは、7年前にギックリ腰になった時以来のことだ。本当に思い掛けない病見舞われ≠ニなったが、病になるビフォー・アフターで、職場の環境も変わっていたということだった。



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