制度と環境の変化が・・・・・、看板の重量化

 2012年4月、1年後より国の障害福祉制度が改正されることが決定した。障害福祉の制度は、この時点では『障害者自立支援法(2006年度より施行)』と呼ばれるものだったが、2013年4月より、『障害者総合支援法』に改称されることになった。
 もちろん、ただ名前が変わるだけではなく、ほかにも大きく変わる部分がある訳だが、この内、特に私自身に大きな影響をもたらした、ある変更点について述べる。
 その変更点とは、障害者が福祉サービスを利用するための、サービス支給決定までの流れである。


 先ず変更前の、サービス支給決定までの流れを簡単に説明する。
 障害者が福祉制度に基づいたサービスを利用したい場合、はじめに障害程度区分判定(介護保険で言う要介護度認定に相等)を行い、6種類ある区分のいずれかに判定されたのち、その区分が対象となっているサービスの中から、必要なものを選んで申請していた。そしてサービスの支給が決定すると、『受給者証』が発行され、1年ごとに更新となっていた。更新時期は各市町村によって異なるが、豊中市の場合は誕生月と定められていた。


 次に変更後(〜現在)の、サービス支給決定までの流れを説明していく。
 障害程度区分(障害支援区分と改称されたが、中身はあまり変わらず)判定がなされるところまでは同じだが、そこから受給者証が発行されるまでの間に、必ず『サービス等利用計画作成』を行わなければならなくなった。これは読んで字のごとく、障害福祉サービスを利用するための、計画の作成であるが、介護保険で言うところのケアプランに相等する。そしてサービス等利用計画作成(以下、計画作成と称す)は、セルフプラン(サービスを利用する本人が計画を作成)を別とすると、研修を受け、資格がある人によってのみ行えるとされた。この“資格がある人”は、『相談支援専門員』と呼ばれ、一般にはケアマネの障害者版と説明されている。ケアマネ、つまりケアマネージャーを日本語で言うと介護支援専門員だが、その『介護』が『相談』に変わったのが、相談支援専門員である。


 福祉サービスを利用したい障害者は、本籍がある自治体の行政を介して、その時本人が実際に暮らしている自治体に存在している事業所に、計画作成依頼を出す。そして事業所が引き受ければその中で担当の相談支援専門員(以下、相談員と称す)が決められ、相談員が本人と面会して初回アセスメントを行う。ここで相談員は本人のニーズを聞き出し、それを基に『サービス等利用計画』の、先ずは案を作成する。この案を、本人や関係者に読んでもらい、内容に異論がなければ同意印を押してもらった上で行政に提出し、行政で認められれば、そこで初めて受給者証が発行されるのである。受給者証の内容は当然ながら、サービス等利用計画作成の案の内容が、大筋で反映されたものとなっている。
 

 まだ終わりではない。この後相談員は、案ではない正式な『サービス等利用計画書』を早期に作成し、行政に提出しなければならない。そして同時期に、本人や家族、関係機関らを一ヶ所に集めての、担当者会議を開かなくてはならないのである。この担当者会議は、サービス支給開始に先立って行わなければならず、支給開始後は一定期間置きにモニタリングを行い、その都度記録票を作成、本人が確認して同意印を押印、行政に提出という流れになっている。
 更新が1年ごとというのは変わらないが、更新に際しては、またサービス等利用計画案の作成からやり直さなければならない。


 以上、サービス支給決定までの流れを駆け足で説明したが、ここに出てきた相談支援専門員というのが、私なのである。もちろん一人だけではなく複数人おり、今後も少しずつ増えていく可能性はあるのだが、過去には、実質私一人だけだった時代もあった。ただその当時は、計画作成の仕事はそんなに忙しくなかった。何故か?計画作成の位置付けが、現在とは全く違ったからである。


 2011年度以前、計画作成の事業は、一部の障害者のみを対象とした、言わば“オプション”であった。
 即ち、受給者証を申請するにあたり、自分で物事を選択した経験が少ない、または判断能力に問題がある等の理由で、自力で生活の計画を立てるのが困難という人が、『障害者版ケアマネ』に付いてもらって一緒にやりましょうという形で運用されていたのが、計画作成だったのである。
 「計画作成の対象と思われる人がいる」という相談は、行政からなされていた。


 そんな感じだったから、対象となる人の数も少なかった。1人の対象者に幾つもの事業所が関わるというケースは無く、ややこしい何種類もの書類の作成や、細かなチェック項目というのもなかった。会議開催に関する縛りも、今ほどは厳しくなかったと思う。
 さらには半年に1回見直しというのがあって、本人が、もう新しい生活(自立生活)に慣れて、相談員の力を借りなくても大丈夫と判断した場合は、ケースは終了となっていたのだ。
 私は自分のほかの仕事と調整しながら、計画作成の仕事も兼務していた。


 2012年4月以降、ガラリと変わった計画作成の書式と格闘し、それに力を使い果たすようになった自分は、次第に仕事全般に於いて、余裕が無くなっていった。当然、目に見えてイライラすることも多くなり、最早『ピークで、充実している』と感じることは不可能となったのだ。書類が求める感覚(行政的な感覚)に対応出来ないあまり、アレルギー反応のような心境に陥ってしまい、その傍ら、この時期から同じ業務を体験し始めた後輩職員のほうが、段々と学習して、要領をつかんでいっているように見えた。
 「今完全に、自分の苦手ばかりが出る時代となっている」 私は否も応もなく悟っていた。


 ただでさえ人より飲み込みに時間が掛かる、計画作成の書類仕事だったが、行政から作成依頼が来るのは、いつも本人の支給更新期限ギリギリのタイミングであったため、どれだけ急いでも、やり始めた端から既に遅れているという状態であった。そのあたりのことは、行政も理解は示していて、サービス利用計画案がまだ正式完成となっていなくても、その内容(本人のニーズ)を先に把握してもらうことで、受給者証は先んじて発行してくれたりした。何と言っても、本人がサービスに届くことが第一である。そのことを、私も常に意識していたから全力で急いだものの、進行は万事後手後手状態。サービス開始に先立って行う担当者会議も、あまりにも日数的に猶予がなかったために、サービス開始の初日を同時に会議の日と設定し、本来ならサービスを受けているはずの時間を、一部会議の時間に割いてもらったケースもあった。


 今後は急ピッチで、多くの障害者の計画作成が実施されなくてはならないため、私の職場の相談員は、全員が激務となることが確実である。
 それぞれの相談員が多数の担当ケースを抱え、日々、複数の関係機関とも連絡を取り合いながら動くため、事務所全体での情報の共有は、より高密度に必要となる。
 私も仕事に追われる傍ら、他の相談員の担当ケースの状況把握にも、神経を配らなくてはならなくなった。


 何か急な動きがあった時など、仕事に集中している私の周りで慌しく話が交わされる場面が増えてきたが、私はどうしても、ハッキリ自分に対して語られる以外の話(つまり、一見雑談のように見える状況でのやり取り)は記憶に残りにくい。脳が、目の前の仕事に全力投球させるべく、『周囲音声』をシャットアウトする傾向が強いからだ。そのため、全員が把握していると思われた伝達事項を、自分だけ聞いていなかったという場面が、出てくるようになった。


 さらに、計画作成以外にも仕事はたくさんある。電話や来所による相談対応も、日常の基本業務として当然やらなくてはならない。しかしながら、書類作成と格闘する時間が激増してくる中、急にほかの対応に追われることが、前にも増して極端にストレスに感じるようになったのである。
 自分では解っていても、感情をコントロール出来ず、ついつい対応する時の態度が乱暴(ぶっきらぼう)になってしまう。そのことに周りは苦言を呈するも、気分が硬直してしまっている私は、仏頂面して黙ったままという状態だった。


 新しい、難しい相談ケースに対応した場合は、後輩の職員が経験が増えてノウハウを身に付けてきている手前、「自分は先輩だから、間違わないように、難しくても平気と思えるように、混乱などしないように」と、存外に構えるようになってしまった。結果、『抜け過ぎ・飛び過ぎ・走り過ぎ』の三拍子が揃ったとんでもない対応に終始してしまい、周りのフォローによって、最終的には役目を果たした格好になっていたのである。


 これ以外には、私が従来担当を続けてきた、点字名刺事業という仕事があった。お客から名刺を預かり、それに点字を打ち込んで発送(または手渡し)するという流れなのだが、点字を打ち込むために不可欠な点字プリンターが、ちょうどこの時期から急激に調子が悪くなったのだ。
 メーカー曰く、寿命だった。何しろ、20年も前の製造なのである。


 点字名刺の注文の量は半端でないほど多く、しかも納期だってそれなりに短いわけだから、急いで作らなければならない。しかし急いで大量にこなすとプリンターに負担が掛かるから、『ゆっくり急いで』、つまり、一日の、点字名刺に費やす時間を可能な限り拡大し、1回あたりに少量ずつこなしながら“間引き運転”を行い、一日あたりの作成ノルマに届かせていたのである。当然、ほかの各業務と同時併行で・・・・・。


 結局2013年限りで、『お預かりした名刺に点字を打つ』点字名刺事業は終了することになった。末期は、朝は定刻より1時間早く出勤して手打ちで点字を打ち(手打ち用キットも持っていたが、手打ちは大層時間が掛かるし腕も痛くなる)、少しでも機械が動けば、手打ちと並行して機械でも作成して完成を急いだ。発送は夜にコンビニか郵便局の時間外窓口にて、となっていたのだが、他の業務も激化する中で、このあたりが潮時であった。


 「何だかもう、着実に自分のクオリティーは落ちてきているな」と痛切に感じた。
 まるでかつてのアルバイト時代のように、職場の中で必死に付いていく側≠ノなっていくのを感じる日々、そんな中で、私はもう一つの大きな変化を自覚していた。それは、体力の低下である。


 38歳の後半ぐらいから急激に体力が落ち始め、気力の面でもスタミナが切れてくるようになった。その伏線と言うべきなのかどうか?38歳まであと1ヶ月だった2011年6月中旬、仕事中の事故で、アキレス腱を断裂する大怪我を負ったのである。


 『事故』と書いたが、具体的には尋常ではないスピードで、2つある事務所の間を通路の段差を越えようとして、転倒してしまったのだ。翌日手術で1週間入院。退院後は1ヶ月間ギプスを着け、移動は車いす、在宅時は松葉杖という生活だった。
 この怪我をする直前、事務所は大変人手が薄く、しかしそんな日に限って電話対応の仕事は立て続けにくるもので、この時はまさに『引っ切りなし』という状況であった。そんな中で、もう一つの事務所に急いで行かなくてはならなくなり、ダッシュで移動中に転倒したのだ。
 後から考えると、もう少し注意と感情コントロールが出来ていれば、あそこまでむやみに慌てることは無かったかも知れず、自分の障害の特徴が出ていたのか?とも思えてくる。


 いずれにしても、アキレス腱を断裂したせいで仕事には制約が出来、中でも特に痛手となったのが、毎週定期の介護に行けなくなることであった。
 『介護者は常に不足しているから、自分は職員として、穴埋め義務がある』という自覚で入っていたのに、自らが穴を空けてしまう結果となり、「とにかく一日でも早く復帰しなくては申し訳ない」の一心で、猛スピードでリハビリに励んだ。その甲斐あって、予想より1ヶ月は早いであろう9月初日から、まだ歩き方は若干普通でなかったものの、介護復帰にこぎつけた。
 「ずいぶん長く穴を空けてしまったな」という思いを胸に、その後も介護に入り続けていたが、冬場は傷口が癒着を起こす(主治医談)とかで、連日かなり足が痛んだ。それでも年が明け、春になれば痛みは治まる。その時こそ完全根治だと思って頑張った。


 明けて2012年の春を迎え、「サァ!遂に一冬乗り越えたぞ。これで痛みから解放された。万歳!」と喜んだのも束の間、そのあと、手の平を返したように、介護に行くのがしんどくなってしまったのである。別に利用者との間で何かあった訳ではないのだが、『事務所が終われば介護に走る』、当たり前にこなしていたこのローテーションが、自分でも「どうなったんだ?」と思うほどつらくなったのだ。その後も半年あまりは頑張って行き続けていたが、結局、事務所が休みの曜日に行っていた1件を除き、定期介護からは引退≠キることになった。
 考えてみれば、事務所の業務に費やす神経と集中力が激増した昨今、仕事の後でもう一度違う仕事にシフトする集中力は、最早残らなくなったのだろう。
 時に39歳4ヶ月。年齢的な要素もあるだろうが、これも一つの、時代の流れであった。


 体力面でも能力面でも、低下の一途を辿った印象が強く残ったのが、30代最後の年、2012年であった。「何だか寂しい幕引きだな」とも感じていたが、40歳の節目を迎えた2013年も、まだまだ苦戦真っ最中という中、月日が進んだ。
 「一生でも背負っていく」と、あれほどこだわってきた【健常者の看板】も、一時期の軽さはどこへやら。今ではすっかり、腰が曲がるぐらいに重く感じるようになってしまった。
 苦しくなればなるほど、かえって意識に大きく乗り出していた【健常者の看板】であるが、40歳になり、この看板を一生背負い続けられるかどうか、はなはだ疑問であった。
 



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